ナチス占領下─
隠れ家で綴られた『アンネの日記』
そして60年後に発見された父オットーの書簡
本作で明らかになった歴史の事実
アンネと無数の子どもたちを追い詰めたのは
「世界の無関心」だった
差別・迫害をのがれて、
隠れ家に身をひそめたアンネ・フランク。
自由、平等、平和に生きたいと願い、アンネが書き続けた日記は
今も世界中の人たちの心を動かしています。
今年は、『アンネの日記』が出版されてからちょうど70周年を迎えます。
ドキュメンタリー映画「アンネの日記 第三章~閉ざされた世界の扉」の
自主上映会を皆さんの学校や地域で開いてみませんか。
本作品は、2005年に発見されたアンネの父オットーの書簡を
手がかりに、アンネや無数の難民たちが世界の無関心によって
追い詰められていった様子を浮き彫りにしています。
「なぜ人間は、おたがいに仲よく暮らせないのだろう」
70年以上前のアンネの言葉は、今を生きる私たちに真っ直ぐに投げかけられています。
一人ひとりの命が尊重される、寛容な社会をつくりだすため、
この作品を通して、歴史から学ぶ機会を作ってみませんか。
NPO法人ホロコースト教育資料センター
代表 石岡史子
自主上映会を開いてみませんか
作品 アンネの日記 第三章 ~閉ざされた世界の扉~
原題 No Asylum : The Untold Chapter of Anne Frank's Story
監督 ポーラ・フォース│脚本 ミカエル・フローレス、ポーラ・フォース│
製作総指揮者 レスリー・シュワルツ、ポール・フォース│2015年 アメリカ │
日本語字幕 NPO法人ホロコースト教育資料センター
言語 英語、日本語字幕
上映時間 75分
対象 高校生以上
強制収容所の解放直後の遺体を映した記録映像が含まれています。
学校で上映される場合は、内容や対象年齢についてお気軽にお問い合わせください。
上映料金 学校 20,000円 その他 30,000円(税込)
上映素材 ブルーレイ、またはDVDを貸し出しします
上映会を開催後、報告書と合わせて一週間以内にご返却ください
申込フォームの画面が開きます
作品紹介
「どうか娘たちだけでも・・・」アンネの父オットーの悲痛な叫び
ニューヨークのイーヴォ・ユダヤ調査研究所で、アンネ・フランクの父オットー・フランクの書簡が発見された。それは、ナチスの迫害から逃れるために、アメリカへの移住の道を必死に模索していたオットーの涙ぐましい努力を伝えるものだった。
「どうか娘たちだけでも」オットーは友人を頼って、窮状を訴え続けた。しかし当時、アメリカも、世界の国々も、ユダヤ難民を受け入れようとはしなかった。オットーは行き場がないことを悟り、最後の手段として、オランダ、アムステルダムの隠れ家に家族とともに潜伏する。1944年夏、隠れ家は発覚し、アンネら家族は逮捕され全員がアウシュヴィッツへ送られる。そして、1945年、アンネ・フランクはドイツのベルゲン・ベルゼン収容所で死亡した。
本作品は、アンネの家族でただ一人生き延びた父オットー、スイスに逃れた従兄バディ・エリヤス、義妹のエヴァ・シュロッスの証言や貴重な歴史映像を通して、ホロコーストの実態とユダヤ難民に扉を閉ざした世界の無関心を浮かび上がらせる。
アンネ・フランクと無数の難民を追い詰めたのは
世界の無関心だった
アンネのいとこバディ、最後の証言
「世界は何も学んでいない・・・」アンネのいとこバディ・エリヤス氏は、自らが建てたベルゲン・ベルゼン収容所のアンネの墓標の前で涙を流す。本作が完成してまもなく、89歳で生涯を閉じた。世界中の子どもたちに平和を語り続けてきたエリヤス氏の最後の姿を映す。
主な出演者
Otto Frank
オットー・フランク
(アンネ・フランクの父)
1889年、フランクフルト生まれ。
家族でただ一人、ホロコーストから生き延びる。1947年夏、娘の日記、「アンネの日記」をオランダで出版する。
1957年、オットーは友人や協力者と共に、隠れ家を保存し、一般に公開するため、アンネ・フランク財団を設立。民族や宗教のちがいを超えて、若者同士が交流できるよう、教育活動に取り組んだ。
Buddy Elias
ベルント・エリヤス(愛称バディ) (アンネ・フランクの従兄)
1925年、フランクフルト生まれ。オットー・フランクの妹ヘレーネ・フランクの次男。父エーリヒは、オペクタ商会(ジャム製造用のゲル化剤を扱う)の創立メンバーであり、1929年、スイスに代理店を開くため、バーゼルに移り住む。ヘレーネとバディ、兄シュテファンも、1931年にバーゼルへ移る。
戦後、スイス、バーゼルのアンネ・フランク財団(Anne Frank Fonds)の会長をつとめる。俳優として、テレビや舞台などでも活躍した。
Eva Schloss
エヴァ・シュロッス
(アンネ・フランクの義妹)
1929年、オーストリア、ウィーン生まれ。1938年に、両親と兄とともにナチスの迫害を逃れ、オランダへ移住する。アンネ・フランクと同じメリウェデ広場の団地に暮らすようになる。1942年7月、兄ハインツのもとに労働収容所への移送のための呼び出し状が届き、家族で身を隠す。1944年5月に隠れ家が発覚し、アウシュヴィッツ収容所へ送られた。
母と二人でアウシュヴィッツから生還する。1945年6月、アムステルダムに向かう列車に、アンネ・フランクの父オットーが乗り合わせていた。1953年、オットーとエヴァの母フリッツィは再婚し、スイスのバーゼルに暮らした。
Leonard Berney
レナード・バーニー少佐
(イギリス軍将校)
アンネと姉のマルゴーが死亡したベルゲン=ベルゼン強制収容所の解放に係わる。当時25歳だったバーニー少佐は、英国陸軍の先遣隊としてベルゲン=ベルゼン収容所に足を踏み入れ、その惨状を目撃した(※)。その後、ベルゼン難民収容所司令、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州軍政長官を歴任、1946年軍を退きます(除隊時、中佐)。戦後は、大手衣料品工場を経営するなど英国の衣料業界で活躍。引退後はベルゲン=ベルゼン強制収容所の解放についての講演や証言を重ね、2015年には解放時の体験を記した著書を出版するも、翌年、95年の生涯を閉じた。
※当時ベルゲン・ベルゼン収容所一帯は、戦闘下で逃げ出す囚人によって独軍・連合軍双方にチフスが拡散するのを恐れた独軍からの提案により一時停戦が合意されており、独軍は収容所を英軍に引き渡してから撤退するSSナチス親衛隊を残して停戦区域から退却することになっていた。