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ビデオ映像を見てみよう

オランダのアンネ・フランク財団の公式You tubeチャンネルより

隠れ家に入る前のアンネ

アンネをぐうぜん写した、ただひとつのビデオ映像です (20秒)

 

1941年7月22日、アムステルダムのメリウェーデ広場で

結婚したばかりのカップルを誰かがホームビデオで

撮影しています。

 

その幸せそうな様子をアパートの住人たちも

窓から顔を出してのぞいています。

 

その中に、アンネが写っています。

現在残っている唯一のアンネのビデオ映像です。

西教会の鐘の音

隠れ家の中で、アンネも聴いていたお気に入りの鐘の音 (34秒、1960年代の録音より)

 

15分毎に聴こえる教会の鐘の音がアンネは好きでした。1942年7月11日付けの日記に、アンネは次のように書いています。

 

「親愛なるキティーへ、

パパも、ママも、マルゴーも、いまだに角の西教会の時計塔から流れてくる、十五分ごとの時鐘の音に慣れません。でもわたしは平気です。最初からこの音が気に入っていましたし、とくに夜は、忠実なお友達のような気がしますから。」(『アンネの日記』より)

 

鐘の音を聞いてみよう。

アンネの父オットー

家族でただ一人生きのびたオットーが、娘アンネの日記を

はじめて読んだときのことを語っています。(2分31秒)

「娘が日記をつけていたことは知っていました。アンネは日記のことを話していましたし、夜になると、その日記帳を私のベッドの横にある書類かばんに入れていました。 私は絶対に日記を読まないことを彼女と約束していたので、一度も開いたことはありませんでした。

 

娘たちはもう戻ってこないのだと知らせを受けた後、ミープが日記を渡してくれました。私は奇跡を見ているような気がしました。読むのには大変長い時間がかかりました。私はアンネの持っていた深い思想にとても驚きました。真面目さ、特に自分に対する批判精神などです。それは私の知っていた娘とは随分違ったアンネでした。彼女は決してこういった内面の気持ちを見せませんでした。彼女はいろんなことについて話したり、批判したりしていました。しかし彼女の本当の気持ちは日記から知るよりほかにありません。私はアンネととても仲が良かったですが、多くの親と同じように、子どもの本当の姿を知りませんでした。この日記から、親や先生が学べることは沢山あると思います。未来を作るためには過去を知らなければなりません。

 

私はずいぶん年をとりましたが、憎しみの気持ちはありません。 多くの若者が私に手紙を書いて、いろんな質問をしてくれます。彼らの多くは自分たちも日記をつけて、その日記を「アンネの日記」と呼んでいます。

アンネがキティーに書いたように、彼らはアンネに書いているのです。若いときに、アンネ自身のことや彼女の経験を読むことで、彼らは自らの人生に多くの自信と希望を得ているのです。」

親友ハンネリ

ハンネリことハナ・ピック・ホスラールが、ベルゲン・ベルゼン収容所でアンネと再会したときのことを語っています。(2分2秒)

(ベルゲン・ベルゼン収容所を歩くハナ・ピックさん)

 

「あなたの友達がここにいるわよ、と言われたんです。

そこで、鉄条網のそばまで行ってみました。

監視塔の見張りに見つかれば撃ち殺されるかもしれないですし、とても危険なことでした。

 

有刺鉄線には、藁(わら)がかけてあって、向こう側は見えませんでした。暗闇のなかで『ハロー、ハロー』と声をかけてみました。

 

私の声にまず気づいてくれたのが、ファン・ダーン夫人でした。『アンネに会いにきたのね。マルゴーは起き上がれないけれど、アンネはすぐによんでくるから』と言ってくれました。

 

しばらく待っていたら、私をよぶ声が聴こえました。アンネでした。

 

とても辛くて、私たちは二人で泣きました。

 

『私は、もうひとりぼっちなの』とアンネは言いました。今でも、この時のことがとてもかわいそうに思うんです。お母さんは殺された、と言いましたが、実際は、体が弱りはてて亡くなったのです。(お姉さんの)マルゴーもとても具合が悪かった。でも、お父さんがまだ生きていることをもしアンネが知っていたら、、、マルゴーも亡くなったあと、アンネは絶望してしまったのですね。」

 

 

 

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