ハンナ・ブレイディ生誕90年記念オンライントーク
On the 90th anniversary of Hana Brady's birth
ララ・ハンナの宝物
Lara's Treasures
ホロコースト生還者二世のララ・ハンナ・ブレイディさんに、戦前・戦中から奇跡的に残る家族の遺品を紹介していただきながら、ブレイディ家の物語についてお話していただきます。
アウシュヴィッツ博物館からひとつの旅行かばんが届いて21年もの年月が経ちます。2000年春、一人ひとりを大切にする寛容な社会をつくりたいと思い描き設立された、ホロコースト教育資料センター(Kokoro)の活動が始まってまだ間もない頃でした。
形のあるモノを通して命への想像力を育むことができたらと考え、アウシュヴィッツ博物館に協力をお願いしていました。
数ヶ月後に博物館から届いたかばんには、白いペンキで文字が書いてありました。
「ハンナ・ブレイディ 1931年5月16日生まれ 孤児」
「ハンナってだれ?」「どんな子だったんだろう」
当時開いていた展示室にかばんを見に来てくれた子どもたちから、たくさんの質問が飛び出しました。
調べてみると、ハンナの家族の中でただ一人アウシュヴィッツ強制収容所を生きのびたお兄さんがカナダに暮らしていることが分かりました。
ハンナの兄ジョージ・ブレイディさんと日本の子どもたちが出会うまでの物語は、その後本や舞台、映画になり、これまで「ハンナのかばん」は、国内外1,200の学校を訪ね、20万人を超える子どもたちに出会ってきました。
いつもジョージさんに寄り添い、一緒に世界中の学校へ旅をしてきたのが、娘のララ・ハンナさんです。
ララさんが幼いころから大切にしている一枚の写真には、子どもの頃の父ジョージとその妹ハンナが写っています。ララさんにとって叔母にあたるハンナは、第二次世界大戦の時に殺されたと聞いていました。「こんなに小さな子が殺されるなんておかしい、嘘だ」と思ったララさんは、小学校からの帰り道によく、いつもの曲がり角で少し立ち止まって、ハンナがいつか現れるはずと信じて待っていました。
中学生になると、「戦争のとき、本当は何があったの?」とララさんはしつこく父に問いただすようになりました。自らのアウシュヴィッツでの辛い体験について語る言葉が見つからなかったジョージさんは、娘を現地に連れていくことにします。ハンナがガス室に送られて殺された、その場所を初めて訪ねたのはララさんが14歳の時でした。
そして、初来日した高校生の時から今日に至るまで、ララさんは世界中の子どもたちと対話を続けています。
今年2021年5月16日は、ハンナが生きていたら90歳の誕生日。
戦前・戦中から奇跡的に残る家族の思い出の品々を見せていただきながら、ララさん自身が受け継いできた叔母ハンナと父ジョージの兄妹の物語をお聞きします。
これまでの体験を経て、ララさんは今どんなことを思っているでしょうか。一人ひとりのかけがえのない命に思いをめぐらせながら、同じ時代を生きる私たちも共に、歴史が投げかけるメッセージを考えてみませんか。
Kokoro代表 石岡史子(ふみこ)
2021年5月16日(日) 10:00 - 12:00 (日本時間)
オンラインで開催します
(Zoom)
ララ・ハンナ・ブレイディ
Lara Hana Brady
カナダのトロント出身。2001年、ホロコースト生還者の父と共に初来日。アウシュヴィッツで13歳で殺された叔母ハンナ・ブレイディの名前が記されたかばんと対面し、日本の子どもたちに家族の物語を語る。以来20年以上に渡って、父と共に世界各地の学校で講演活動を行いながら、「ハンナのかばん」の原作、舞台や映画の監修を務める。戦前・戦中のブレイディ家の遺品を管理しながら、様々な教育プロジェクトに提供している。昨年のホロコースト解放75周年からオンラインでも子どもたちへの講演活動を継続して行っている。
NPO法人ホロコースト教育資料センター代表
石岡史子(ふみこ)
日本語と英語の同時通訳がありますので
ご希望の言語をお選びください
興味のある方はどなたでも
450名 (申し込み順)
無料 寄付チケットあり
①安定したネット環境をご確認ください。
②事前にZoomのインストール(無料)をお願いします。
すでにお使いの方も最新版にアップデートしてご参加ください。
イスラエル大使館 ドイツ連邦共和国大使館 チェコ共和国大使館 カナダ大使館
Messages on Hana's 90th anniversary day
人が互いの体験や人生を分かち合うことの大切さを、日本の子どもたちにも、皆さんにも、知っていただきたいと思います。日本の子どもたちのグループと石岡史子さんという熱意あふれる指導者のおかげで、トロントに暮らす一人の老人の人生が満たされました。
ホロコーストから生還したジョージ・ブレイディは、生き長らえた自らの人生を受けとめ、両親やいとこ、叔母や叔父、友人たちを失ってしまった悲しみも彼らの思い出を意味づける人生を生き抜くことで、何とか乗り越えてきました。
しかし、妹のハンナを失った悲しみは克服できずにいました。たった13歳でハンナはアウシュヴィッツで殺され、その痛みをジョージはぬぐい去ることができなかったのです。
そこに日本から一通の手紙が届きました。それは、妹も自分も出会ったことがない人たちからで、短く断ち切られてしまった妹の生涯を尋ねるものでした。
それがきっかけで、ジョージはハンナの物語を分かち合うこととなり、先生になりたいというハンナの夢も亡くなってから実に65年を超える歳月を経て叶いました。
あの最初の手紙以来20年、私たち家族は世の中がもっと寛容で暮らしやすい社会になることを願い、ホロコーストの歴史の教訓だけでなく、生きることやお互いに受け入れ合う心を持つことの大切さをお話してきました。
これもみな、遠い世代の何千キロも離れたところに生きた一人の少女のことを知りたいと願った小さなグループがいてくれたからこそです。
ハンナが生きていたら90歳という節目に、私たちの世界が時も場所も超えて繋がっているということ、そしてお互いを必要としているということを、共にお祝いしたいと思います。