今年は、『アンネの日記』が出版されてちょうど70周年です。
差別・迫害をのがれて、
隠れ家に身をひそめたアンネ・フランク。
自由、平等、平和に生きたいと願い、アンネが書き続けた日記は
今も世界中の人たちの心を動かしています。
この度、NPO法人ホロコースト教育資料センター平成28年度総会の
特別企画として、ドキュメンタリー映画
「アンネの日記 第三章~閉ざされた世界の扉」を上映します。
本作品は、2005年に発見されたアンネの父オットーの書簡を
手がかりに、アンネや無数の難民たちが世界の無関心によって
追い詰められていった様子を浮き彫りにしています。
「なぜ人間は、おたがいに仲よく暮らせないのだろう」
70年以上前のアンネの言葉は、今を生きる私たちに真っ直ぐに投げかけられています。
一人ひとりの命が尊重される、寛容な社会をつくりだすため、
皆様と共に歴史から学ぶ機会にしたいと考えています。
ご参加を心よりお待ちしています。
「どうか娘たちだけでも・・・」アンネの父オットーの悲痛な叫び
ニューヨークのイーヴォ・ユダヤ調査研究所で、アンネ・フランクの父オットー・フランクの書簡が発見された。それは、ナチスの迫害から逃れるために、アメリカへの移住の道を必死に模索していたオットーの涙ぐましい努力を伝えるものだった。
「どうか娘たちだけでも」オットーは友人を頼って、窮状を訴え続けた。しかし当時、アメリカも、世界の国々も、ユダヤ難民を受け入れようとはしなかった。オットーは行き場がないことを悟り、最後の手段として、オランダ、アムステルダムの隠れ家に家族とともに潜伏する。1944年夏、隠れ家は発覚し、アンネら家族は逮捕され全員がアウシュヴィッツへ送られる。そして、1945年、アンネ・フランクはドイツのベルゲン・ベルゼン収容所で死亡した。
本作品は、アンネの家族でただ一人生き延びた父オットー、スイスに逃れた従兄バディ・エリヤス、義妹のエヴァ・シュロッスの証言や貴重な歴史映像を通して、ホロコーストの実態とユダヤ難民に扉を閉ざした世界の無関心を浮かび上がらせる。
アンネ・フランクと無数の難民を追い詰めたのは
世界の無関心だった
原題 No Asylum : The Untold Chapter of Anne Frank's Story
監督 ポーラ・フォース│脚本 ミカエル・フローレス、ポーラ・フォース│製作総指揮者 レスリー・シュワルツ、ポール・フォース
2015年 アメリカ 75分 │ 日本語字幕 NPO法人ホロコースト教育資料センター
アンネのいとこバディ、最後の証言
「世界は何も学んでいない・・・」アンネのいとこバディ・エリヤス氏は、自らが建てたベルゲン・ベルゼン収容所のアンネの墓標の前で涙を流す。本作が完成してまもなく、89歳で生涯を閉じた。世界中の子どもたちに平和を語り続けてきたエリヤス氏の最後の姿を映す。
出演
Otto Frank
オットー・フランク
(アンネ・フランクの父)
1889年、フランクフルト生まれ。
家族でただ一人、ホロコーストから生き延びる。1947年夏、娘の日記、「アンネの日記」をオランダで出版する。
1957年、オットーは友人や協力者と共に、隠れ家を保存し、一般に公開するため、アンネ・フランク財団を設立。民族や宗教のちがいを超えて、若者同士が交流できるよう、教育活動に取り組んだ。
Buddy Elias
ベルント・エリヤス(愛称バディ) (アンネ・フランクの従兄)
1925年、フランクフルト生まれ。オットー・フランクの妹ヘレーネ・フランクの次男。父エーリヒは、オペクタ商会(ジャム製造用のゲル化剤を扱う)の創立メンバーであり、1929年、スイスに代理店を開くため、バーゼルに移り住む。ヘレーネとバディ、兄シュテファンも、1931年にバーゼルへ移る。
戦後、スイス、バーゼルのアンネ・フランク財団(Anne Frank Fonds)の会長をつとめる。俳優として、テレビや舞台などでも活躍した。
Eva Schloss
エヴァ・シュロッス
(アンネ・フランクの義妹)
1929年、オーストリア、ウィーン生まれ。1938年に、両親と兄とともにナチスの迫害を逃れ、オランダへ移住する。アンネ・フランクと同じメリウェデ広場の団地に暮らすようになる。1942年7月、兄ハインツのもとに労働収容所への移送のための呼び出し状が届き、家族を身を隠す。1944年5月に隠れ家が発覚し、アウシュヴィッツ収容所へ送られた。
母と二人でアウシュヴィッツから生還する。1945年6月、アムステルダムに向かう列車に、アンネ・フランクの父オットーが乗り合わせていた。1953年、オットーとエヴァの母フリッツィは再婚し、スイスのバーゼルに暮らした。
開催のご報告
10代から70代まで148名の方にご参加いただきました。
アンケートにお寄せいただいた感想を一部ご紹介します。
今回の映画を通して、人に関心を向けないことによって多くの犠牲者が生まれ、悲惨な歴史が生まれてしまったことを知り、自分だけではなく他者の気持ちに寄り添うことが必要であることがわかりました。(10代・高校生)
人間は人間に対してここまで暴力的になることができるのだという事実に寒気がすると同時に、自分の中にもそのような面があるのかもしれないと思うと、怖くなった。(10代・大学生)
どうしたら次世代にこの出来事を伝えることができるだろうか、私たちのような若者にホロコーストの時代を知ってもらえるだろうか、を考え行動することが大事だということだ。同世代の友人に「ドイツについて」どう思うのか聞いたとき、歴史を通して危ないイメージがあると言われたことがある。しかし、現代のドイツは難民の受け入れにも積極的であり、間違ったイメージの定着があるのではないだろうか。(10代・大学生)
ユダヤ人の差別・虐殺は確かに人間の弱さが生み出したものだと私も思いました。しかし、弱さだけでは人は「悪」になることができないと思うのです。電車から降りるのが遅いおじいちゃん、おばあちゃんに急いでいるとついついイラっとしてしまいますが、広い意味で言うとこれも弱さだと思います。でも、これの社会的余波はあまりにも小さいです。つまり「悪」は弱さに「権力」と「妄信」が生み出す恐怖の結果だと思います。ヒトラーはドイツの抱える問題を片付けようとしただけ、SSは機械的に“処理”をしただけ、ドイツ人は自らの生活を守ろうとしただけ…、表面上責任をとり、終わった問題のように次の世代が忘れ去るこの状況が次の「悪」を「罪」を生まないように、私たちにはやるべきことがあると感じました。(10代・大学生)
収容所で「今日からお前は人間ではなく番号だ」と言われ、人間の尊厳をはく奪されていく過程と、人間の苦痛の表情を見ると、“言語を絶する”自分と出会うことに気づきました。(20代・大学生)
「遠い国の昔の出来事」という認識を、「自分事」として捉えることに意味があると感じました。(20代・大学生)
今日の世界は難民受け入れに対する、消極的な姿勢、外国人排斥を掲げる保守政党の台頭、自らが幸せであれば良い、他国や他人に無関心、そういった流れが強い。このような事実や歴史をまず各々が認識していくことが、現代に生きる我々ができるまず第一歩であると思う。(20代・大学生)
“虐殺が起こっていた”という事実だけを直視すると、ある程度の平和が訪れた現在の日本に暮らす私たちには“遠くで起こった私たちに関係のないできごと”と考えがちですが、アンネが私たちとまったく同じ文化的な生活を営んでいたことを再認識したとき、そういった考えに陥らせてしまうホロコーストの悲惨さを実感し、恐ろしくおなりました。“感じた”だけで終わらせないように、感想や事実などを周りの人に伝えていこうと思いました。(20代・大学生)
人間の中に誰しもが潜んでいると思われる、自分と同質を受け入れ、異質を拒絶する精神構造は、まずその存在を肯定することから、異質な人物にも同質の受け入れができるようになることを願っています。教育はその有効な解決方法と思います。(60代)
本当に同じ人間の今の人々も歴史を学んでおらず、シリア、スーダン、そしてISと、この当時と何も変わっていない。当時と同じ人間の筈で、一人一人は「平和、幸福」を願っている筈なのに…。(60代)
“Humanity never learns.” 言い切られてしまって言葉が出ません。人間同士の殺し合いがどうしても理解できないです。日本も戦争でやってしまったことが数多くあるはずです。もっと日本も我々世代、次世代にきちんと伝えてほしい。(50代・教員)
知らないところで行われていた蛮行に直面したドイツ国民。日本人である私も他人事ではないのかもしれないと思った。(40代)
今も虐殺されたり民間人が殺されたりするのをニュースで見ているのに何もしていない。世界に報道され、助けを求めているのにまだまだ日本は難民の受け入れに消極的であるのがとてもくやしく思った。今の世界情勢を知ることが何か一つでも難民とよばれる人の助けになれるのではないかと思う。自分一人では何もできないけど、いざという時に情報を持っていて正しい判断ができるようにしておきたい。(20代・大学生)
無意識に“上下”を感じつくってしまうのではなく、「助けてあげる」のではなく、「助け合う」「協力し合う」そんな考え方にシフトしなくてはと思いました。ドイツと日本は似ていると言われ、第二次世界大戦においては同じようにくくられることもあるけれど、そうカテゴライズして考えるのではなく、一人の人生がどうだったか、という視点をもって考えてみたいなと思いました。歴史から学ぶということを、学ぶだけでなく、どう今に生かすか、どこまで自分とリンクさせるか、自分はまだまったく考えられていないので、他社と共生するためにできることを考えたいです。(20代)
差別は、一部の人が勝手に行うだけでなく、「大多数」の人たちの無関心な態度が、差別を助長させるのだと痛感しました。平和であるということは戦争放棄のみならず、差別も棄てることにつながると思います。(20代)
皆「アンネの日記」は知っていても、そこから何か考えたり、何か知ろうと思ったりすることはあまりないと思います。どんなに歴史を勉強してもあまり人権問題や日常的に何かを考えることに結び付きにくいと思います。知識として歴史を学ぶ教育でなくもっと倫理観や道徳に訴える教育でなければ意味がないんだなと思いました。「道徳という」教科書が独立してあるので、なんとなく切り離されて育つのと思います。(20代)
一つの国の施策ではなく、社会が人権をどう考え、どう守っていくか、改めて突き付けられた気がします。アンネの言葉で、「私が私でいることを許される社会に」といった意味に近いものがあったと思います。それを実現していきたいです。(30代)
差別、迫害は身近なものです。大きなものでは国籍、宗教、小さなくくりでは職業や住んでいる地域など…。自分自身におごりのないように生きていきたい。(40代)
私たちはふだんの生活の中で過去に起きた戦争や今、起きている紛争などに私たちは普段の生活の中で、過去に起きた戦争や今起きている紛争などについて多く語ってはいないと思う。遠い昔だからか、遠い国だからかはわからないが、語ってこなかったことが今をつくり、未来の社会をどう作るのかの分かれ道にいるのにもかかわらず、不安な状態をただただ作り出しているのではないだろうか。ホロコーストについても、継続的に学んでみることで、平和を語る機会に活かしていきたい。(50代)
当時の社会事情があってのこととはいえ、このような悲惨な状況になるまで手を差し伸べられなかったこと、様子が周囲に知られなかったことが、何度学ぶ機会があっても理解できません。日本の戦争中にも言えますが、教育の恐ろしさを感じます。正しい情報を得、伝えていく力を大切にしたいです。(50代)
ナチスはもうこの世にはいないのだと、長い間漠然ととらえていましたが、最近の(特に2001年以降)各地での大国による暴力の存在を目にして、実は現在なお暴力的な「なにか」は依然として、名前と形を変えて存在しており、かつ、昔から何ひとつ変わっていない「不寛容」な風潮に危機感を持たざるを得ません。日本人の多くの人々が、より多くの人々が、1930年代の第二次世界大戦直前の世界中に蔓延していたレイシズム、ユダヤ人が迫害された事実を知ることが大切です。「あれが最後の選挙投票日になるとは思っていなかった」(有名なホロコースト犠牲者の言葉)といったことは、必ず避けるべきことと改めて思います。(年齢未記入)